ミッション・ビジョン・バリューと人間性
昔から、ミッション・ビジョン・バリューみたいなものはエンティティとして用いられていた概念なのか。それとも、近年になって用いられることがオーソドックスになってきた概念なのか。
もし近年になって用いられれているものなからば、昔は違った。
昔は、経済成長と個人の環境改善とが比例関係にあってある程度わかりやすかったとする。
そのときが、実は一番経済合理性が用いられたときなのではないか。
つまり、経済合理的なをすることの反映としての個人の環境改善までの道筋が見えやすいとき、経済合理的な行動に対するインセンティブが、経済合理的であることそのものになる。
一方、ミッション・ビジョン・バリューのような定性的な概念を用いるということは、
全面的に、一部を真似する
憧れている唯一の人とか、ベンチマークにしているたった1人の人とか、自分にはそういった人はいない。
これまで参考にしてきたたくさんの人たちのうち、ほんの一部を挙げるだけでも下記のような人がいる。(順不同。何において、という点についてはこれから述べることを読んでいただければわかるように、意志を持って記載しない。)
* 本多静六
* 濱口秀司
* 御田寺圭
* 島田紳助
* 太田光
* 関根勤
* ハンナ・アーレント
* J.P.サルトル
著作権と人類の英知
人間が使用している言語も数字も、全て誰かが発明して壊して積み重ねていま形成されているものだ。
ABC問題を解くために独自の関数を定義した望月新一氏も、問題を解くために新しい関数を定義することでゼロイチをしているように捉えられることがあるが、それまでのすべての数学的歴史のうえに「これまでに無い関数」を定義しているというコンテキストで捉えると、これまでにないという文脈はこれまでにある数学的歴史があってこそ存在するということが自明となる。
「異世界からきた」論文を巡って: 望月新一による「ABC予想」の証明と、数学界の戦い2012年、数学界に激震が走った。30年近くだれも解けなかった「ABC予想」を京都大学教授の望月新一が証明したというのだ。ただ、その証拠である論文は「
メタ認知がもてはやされている
ティール組織しかり、メタ認知がもてはやされていて、人間としての成熟した姿の条件としてメタ認知を当然のように語ったり、自分も一部それに加担している意識があるが、本当にそうなのかは時々検討してもいいと思っている。
メタ認知ができる → 優れている人間
みたいな構図は社会通念の1つであって、ハッキリいえばでっちあげの幻想かもしれない。優れている人が自分の優れている尺度を他の人に押し付けているだけの可能性もある。
ディシプリンとして、他の人がアドホックに監視しなくても自分で自分を監視して律することができると、自分として助かったり生きやすく感じられる部分も確かにあるだろう。ただ一方、それまでアドホックな監視をしていた側、王様などの権力側が、自分たちがわざわざ出向いて監視しなくても統治できるように編み出した、規律という名のもとの権力側の監視のスケーラビリティの確保のための人類の発明なだけかもしれないのである。直接見に行かなくとも、自分で自分を律するので、