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全面的に、一部を真似する

全面的に、一部を真似する

憧れている唯一の人とか、ベンチマークにしているたった1人の人とか、自分にはそういった人はいない。

これまで参考にしてきたたくさんの人たちのうち、ほんの一部を挙げるだけでも下記のような人がいる。(順不同。何において、という点についてはこれから述べることを読んでいただければわかるように、意志を持って記載しない。)

  • 本多静六
  • 濱口秀司
  • 御田寺圭
  • 島田紳助
  • 太田光
  • 関根勤
  • ハンナ・アーレント
  • J.P.サルトル
  • アルフレッド・アドラー
  • 堀江貴文
  • 佐藤航陽
  • ひろゆき
  • ロバート・ルービン
  • 松本大
  • レイ・ダリオ

挙げればきりがないので上記に留めておく。

巷ではよく、「この人のAという部分は自分に取り入れるけど、Bという部分は取り入れない」とかそういった表現をされることがある。

これはほぼ不可能だと考えている。これが「全面的に」という部分に対応する。

どういうことかというと、その人は全体とAとBとCとDとその他の部分が、相互作用して変容し続ける動態的なパッケージとして成立しているのである。「成立」というと何か条件設定のような意味合いになるので、「相互形成されている」と表現するほうが適切か。

つまり、いいとこ取りできるほどに全体と部分は疎結合なわけではないのだから、Aは取り入れてBは取り入れない、といった自分に都合のいい取捨選択は、ほとんどの場合、全体性や複雑系の論理と観点が抜けている。

また、人を部分から形成されていると捉えることは、その人をそのまま・あるがまま受け入れるという観点と敬意を欠いているし、その人の複雑な文脈的背景・歴史を見る観点と敬意を欠いているし、「(部分という取り替え可能なパーツなんだから)パーツを入れ替えればその人はもっと○○になれる」みたいな、無機質なパソコンのようなモノとしてではなく、有機的で最終的にはわかりきれない相手と自分のそれぞれがいるという関係性の観点と敬意を欠いている。

だから私は、相手を全体としてそのまま受け入れる。

これが、本稿のタイトルの通りの「全面的に」に対応する。

その上で、「一部を真似する」というのは、その人の視座・視野・視点を徹底的に自分の中に入れたとしても、最終的には完全なコピーも理解もできないし、細胞レベルでも精神レベルでも魂レベルでも時間レベルでも、相手に完全に「成る」ことはできないので、自分が捉えられるのは、良くてもその全面性そのものの一部でしかない、ということである。

概念的に近似すると、イコールではないが、株式会社の発行済株式の一部を一時所有することに近い。

株式は、所有権の分割を可能にするものである。所有比率の差こそあれど、全体を一体として捉えるエンティティ(会社)という概念を捉えた上で、その会社が所有する文化やらノウハウやら無形資産やら建物やら技術やらを、それぞれ資産で分けるのではなく、会社全体の均等分割して部分所有するものである。

もっと言うと、合名会社・合資会社の無限責任社員のほうが概念的には近い。その人を受け入れた影響は自分の中で無限に広がる可能性が常にあり、それ自体はリスクテイクである。有限責任と無限責任という会社の構成員としての仕組みとしては、最終的には金銭的なリスクテイクとしての無限責任となってしまうが、それに近い意味合いで、相手をそのまま・あるがままに受け入れることは、自分の尺度(価値観)や視座・視野・視点が永遠に変わってしまう可能性のあるリスクテイクである。そのまま・あるがままを受け入れていないのであれば、自分を変えないという不断の決心をしていることに他ならならず、リスクテイクはしていない。もちろん、変わらないこと自体がリスク、という観点もあるが、株式所有や無限責任社員を思考停止して自分のことも振り返らずにただただ継続するのは、そのまま・あるがままを受け入れて、それでも分かり合えない・分かり切れないという限界を感じながら

全面性を捉えることは、敬意を払うということであり、複雑性を受け入れる教養である。

また忘れがちな観点としては、自分を大事にするということでもある。

これは、最終的には、相手のことを全面的に受け入れても、マズかったら吐き出せばいいし、その吐き気という自分の感性を受け入れて大事にしているということなのである。「知性の核心は知覚にある」。安宅和人氏がこれを論文で主張したが、この知覚、イコールではないが自分の感覚・感性というものを常にとは言わないまでもたまには振り返ったりじっくり味わい、それに正直であること、例えばいつのまにか自分が違和感を持ってしまう人などに対する自分の姿勢や感情の動きに正直になり、そこから自分を観察し、決して決めつけてかかるのではなく、ただそのままの今の自分の感性と過去からの変化、これから変化を受け入れる。

この「感性」を大事にすることが、自分を大事にするということである。

まとめると、相手に敬意に払うという意味での「全面性」を前半で述べ、そこから謙虚さとリスクテイクをが併存する「一部を真似する」姿勢について述べ、また自分を大事にするという意味での「全面性」に再度触れた。

私は高校生のときに、「他人からの敬意を期待する権利は無いが、自分には他人に常に敬意を払う義務がある」ということを思うようになった。表現が変わったり視点が変わったり増えたり多面的になったりといった変化は経ているが、現時点での私の表現としては、「全面的に、一部を真似する」というのが、「敬意」に対する私の考えであり具体的な姿勢である。