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学歴とシグナリング

学歴とシグナリング

「学歴じゃなくて、実力、今の能力をもとに自分は活動している」とか、「学歴なんて役に立たない」とか、そういった表現・発信をする人がこの5年くらいだろうか、すごく増えてきているように感じる。

感情的には、これは理解できるというか、共感するところがある。

会社の経営に対してシュレーディンガー方程式はほとんどの場合は使えない場面が多いだろうし、使えるほどに訓練していないこともあるでしょうし、三角関数は経理の実務に使えないことが多いだろう。

勉強、特に学生時代の勉強内容といまの実務がリンクしていないことは多いし、日本においては、専門学校や修士~博士といった、(その時点の)専門性を高めるような勉強をした人以外は、少なくとも勉強した大部分がそのまま使えるほどにはリンクしていないと思う。

私は2018年頃に、「学歴ではなく学習歴」というのを可視化してそれが正当に評価されるような、「教育×人材」領域の新規事業を企画したことがあり、そのときは冒頭でいったような「学歴じゃなくてXX」みたいな表現をしていた。

けれども、正直、あんまりうまい表現でも、的確な表現でもないように思うようになった。

そう思うようになったキッカケはいくつかあるのだが、最近、東大出身で起業家兼投資家として活動して、直近で出した本がLinkedIn含めて様々なメディアで取り上げられてベストセラーの1つになっている方の発信をみていて決定的にそう感じるようになった。(その方に直接お会いしたこともある。)

その方が言っていたのが、「企業経営や投資家をやるうえで、東大にいたことや東大出身であることが全く役に立たなかった」ということ。

上で記載した、「勉強と実務のリンク」という観点では、ある程度はこの発言は理解できる。

おそらく意図としては、「勉強する環境として、わざわざ東大ではなくてもいい。別のところでも大学で学んだ同様のことは学べるし、大学に行くこと自体も問い直した方がいい」ということだと推察する。

私も大学の意義などについては人によってバラツキがあるため、思考停止してとりあえず行く、ということ自体は問い直してもいいと思っている。ただ、思考停止して飛び込んだ環境で何かキッカケに出会うこともあるしそれを予測するのは個人的な感覚として難しいので、アホになって大学に行く、というのが悪いとは全く思っていない。(大学で出会ったことや学んだことを無理に活かさなくてもいい、とは思っている。)

話を戻すと、その方の意図というか背景思考はある程度的を得ているとは思いうが、「東大出身であることが全く役に立たなかった」というのは、ハッキリ言って、傲慢というかメタ認知ができていないのではと考える。

勉強や勉強内容としての東大は(その方が通っていた当時は)実務とリンクしていないし、実務とリンクさせるようなことをその方が環境として選んでいない、ということはあるかと思う。

そして何よりも、「東大だから信用されてお金が借りられたとか採用できた」というような、他の人がその人の何を評価するかという要素として出身大学というのはかなり見られている、というのは事実だと私は捉えている。出身大学によってシグナリングとして「この人は信用できそう」と思われてコトを進められた場面があったはずなのである。

もしそれを、すべて能力主義(メリトクラシー)としての自分の実力としてすべて説明できると考えているなら、それは間違いだと考えている。

大学での勉強内容や出身大学で評価することが本質的かというと、そうではないと私は思っている。とはいえ世の中は、そういったものを判断材料の1つとして用いているということは、その材料としての重要性は日本では相対的に落ちてきている部分があるとはいえ、事実としてあると思う。

それを差し置いて、すべてが自分の能力だ、とその方が言っているようで、「それはちゃうんじゃない?」と私としては違和感を覚えた。

今後は動態的な関心変化やスキル変化がどんどん重要になってくると考えているので、それを下支えするような柔軟な教育プラットフォームや教育におけるIT活用の場面が増え、私も含めて個々人に対して適切な学習を案内してくれるAIエージェントも発達することで、学習がしやすくなる環境が構築される。

ただ、学歴というシグナリングの重要性が、完全にゼロになるかというと、個人的にはそれは無いと考えている。大幅に見直されたりすることは私が生きている間に起きる(私が起こすこともあると思います)と思うが、様々なログデータが残るようになったとしても、「◯◯大学に行った or 行っていない」というゼロかイチかというわかりやすい指標をもとにした安易な判断から人間が完全に逃れられるかといういうと、それはかなり難しいと考えている。わかりやすいものに飛びつきたくなるのは人間の性の1つ。

人間が最終判断をする限りはそのわかりやすいシグナリングは効力があるので、人間が最終判断自体をしないような仕組み、アルゴリズムによって判断をするような仕組み、というのが社会的に広く発達するのだろうと予測している。というかそれのほうが良いと思っている。