ストーリー的意味づけからの脱却
人間がストーリーに動かされて意味づけするのは性としていいけど、意味づけしすぎ、という観点も持ってもいいと思う。自分は体系化マニアだが、言い換えると体系化とは意味づけマニアだとも言える。わざわざ全体を捉えて、単体だと本来は大して意味がないものにその中での位置づけをして意味を持たせようとしている自分がいる。
過去の色々な出来事が、創発的・偶然的にいまのある構造を形作っているが、自分のことや自分にまつわること、自分が見ていること、自分が見ていると思っていること、自分が関わっていることについて、自分がわかっていないと思いたくない。
そう思ってしまうと、自分の軸足が無いような、拠り所が無いような、そういった感覚と直面しなければいけなくなる。
それに直面するのが怖いので、人は様々なストーリー的意味づけをする、あるいはしてしまう。それも過剰なほどに。
本来はいまのある構造は偶然的に構築されたものや、偶然的に集積したものであるとしても、それについて自分がわかっている、自分がコントロールできている、と思いたい願いから、ストーリー的意味合いをでっち上げて生きている。
このストーリー的意味合いを自分として作り出すために、私の場合は体系化して図示したり、フレームワークをたくさん引き出しとして備えて尺度や視点を多角的にしたりしている。
このようなストーリー的意味づけが可能になったり偶然性を受け入れられなくなってくると、自分がでっち上げたものであってもストーリー的意味づけが固定化し、それがときにはトラウマというかたちであったり認知バイアス(後知恵バイアス、確証バイアス、生存者バイアスなど)というかたちで自分を捉えて離さなくなる。
このストーリー的意味づけを解きほぐし、自分のなかで固定化していたり固定化している状態に近いような構築を捉え直すことが、トラウマや認知バイアス、日々の我々の偏見を客観化し、意味の呪縛から自分を開放してあげて楽になることにつながるのではないか。