6 min read

支配って大変なんじゃね?

支配って大変なんじゃね?

「俺がやればうまくいく」とか、「俺が経営すればうまくいく」とか、「俺が大統領になればうまくいく」とか、いろんな階層的上位なものにその時点で位置している人に対して、いろんな人が羨望と嫉妬の眼差しを向けて、時には足を引っ張ったりするけど、それらは全部、恐怖心から来ているのではないだろうか。

その恐怖心は、「コントロールできないこと」、言い換えると「思い通りにいかないこと」に対するものである。

マンガやらアニメやらで、悪役が「世界征服」というビジョンを持って活動していることがあるが、ほとんどの場合、「コントロールできないこと」や「コントロールできない範囲があること」に対する顕在的・潜在的な圧倒的な恐怖をがあるが故に、それを克服するために「世界征服」というビジョンを叶えたいと思っているのではないか。

逆に捉えると、恐怖心が無い、もしくは恐怖心が小さい人は、「コントロールできないこと」や「思い通りにいかないこと」への耐性や許容度、寛容度が高く、入れ替わったりポジションチェンジしたり役割変更したり新しいエンティティでチャレンジすることへの抵抗が少ない。

あくまで日本語的な捉え方となるが、「支配」という言葉自体も、「支え」て「配る」という一連の行動だとすると、支えたうえでそれを配って循環させていくことは思っていることの数百倍は難しいことなのではと思う。

逆に言うと、支配層が支配できているというのは、それが本当に出来ているのであれば、すげー難易度が高いことを実現しているスーパーな能力やスキルや度胸であるとも捉えることができる。

支配層にいま位置している人は、それはそれで「コントロールできないこと」への恐怖心が強く、「俺が経営すれば/大統領になればうまくいく」と考えているひともそれと全く同様の恐怖心を持っている。

この場合、プレイヤーと支配層が入れ替わったとしても、恐怖心ベースの支配という構造が変わっていないので、恐怖心ベースでの支配という特徴に基づいた課題などは再生産される。例えば、有無を言わせない言動を強めていったり、裸の王様になってメタ認知能力が下がったり、氾濫因子をエンティティ内に産みやすくなったり、次の恐怖心ベースの因子に恨まれるとか、そういったことが再生産される。

私の少ない経験ベースだが、「社会的なミッション」として経営している人は、ほとんどすべての場合、そのミッション意識やミッション的理由は後付けしているだけであり、行動の起点となったのは恐怖心や過去に対する自分の眼差しの結果として生まれているコンプレックス的感情である。例えば、学歴コンプレックスを抱えている人は自分の直属の部下に高学歴な人を起用する傾向が強く、学生時代にいろいろなものと折り合いがつかなくて学生起業した人(学生起業するしか生き方が作れなかったと思って起業している人)は、世の中との折り合いを付けるのがうまい、処世術に長けたピカピカキャリアの人を直属の部下に起用する傾向が強い。モテなかった人は直属や秘書に容姿端麗な人を起用することもあるだろう。

スタートアップやベンチャーは上記のような人がたくさんいるので気をつけてほしい。コンプレックスをいろんな方面に持っていて、自分が取って代わられる恐怖心が極めて強く、しがみつき、社会公器とはどこ吹く風でコンプレックス解消のために自分の都合の良い人を周りに起用し、そのコンプレックスと自分に対してメタ認知ができず、構造的に解消しないコンプレックス解消的行動にも自分で気が付けない人ばかりだから。本当に。

『1兆ドルコーチ』という本の中にもあるが、「コーチャブル」な人にしかコーチングは本質的には機能しない。で、コーチャブルな人はスタートアップやベンチャーにはほとんどいない。もし接する機会があればその程度の期待値で対峙したほうが良い。(そこでもし自分に「俺が経営すればうまくいくのに」という感情が発生したら、自分にも恐怖心があることをメタ認知していくしかない。)

スタートアップが「大企業だとできないこと」や「大企業におけるイノベーションのジレンマ」をキッカケとして立ち上がったりすることはあるが、スタートアップとは成長であり、大企業ができないことを手掛けることが使命であり、大企業になって大きな市場シェアを獲得し続けることなどが目的である。(繰り返すが、ミッションはほとんどの場合は後付けであり、ビジネス的尺度、金銭的尺度が優先される現実は直視した方が良いし、人間はわかりやすい指標や尺度に吸い寄せられて過剰に着目する性質を持っていることは認識しておいたほうが良い。)

これは私の個人的な意見でもあるが、成長できないならスタートアップではないし、成長できないならそのスタートアップにチャンスは無いし、成長という結果を引き出せないなら経営者は取って替えられるべきである。ただややこしいのが、営利企業として法的に設立されている会社は株式会社ばかりであり、創業者兼経営者が株式の大半を有していると、自らを律したり視座が高くない限り、「成長というスタートアップの至上命題のためのガバナンス」という意味での健全なガバナンスが効かない。実際、スタートアップであっても、ほとんどの経営者は創業者であり、自ら変わるといった行動は発生していない。もちろん一部の例外はあるが、それが例外的事象というのは皮肉である。成長を諦めるなら、スタートアップ的な仮面を纏わないほうが本人も楽になれるとは思う。ただ、有象無象のスタートアップやスタートアップ仮面ライダーがいるからこそ、その中での成長という至上命題に突き進むスタートアップが創出され、その絶対数が増えるという市場全体的な側面はあるので、成長できない企業との比較で成長をする企業に資本が集まる、というのは忘れてはいけないように思う。すべてをゼロかイチかでキレイに分けようとし続けると、数を打って確率論的にホンモノが発生するプロセスを歪めてしまう。

その目的自体がなんともトートロジー的な感じもするが、スタートアップはその時点の既存の大企業に取って代わって大企業となることが、ビジネス的尺度としての成功なのである。(それを達成すること自体の難易度が高いのは言うまでもないが。)

そのホンモノを見分けるための情報収集やメタ認知、直感的理解はもっと発展するほうが良いと個人的には考えている。成長にドライな、目的ドリブンな経営者がいるかは自分の目と経験で確かめるしかない。繰り返しになるが、ほとんどの人は、コンプレックス解消のために経営者をやっている。

その意味で、企業もプロダクトも、ライフサイクルは人間の恐怖心とその構造的限界のサイクルであるとも捉えることができる。

企業のライフサイクル

企業のライフサイクル

プロダクトライフサイクル

プロダクトライフサイクル

成熟した、寛容度の高い人は、その恐怖心ベースの構造的限界を歴史にも実感値としても学んでいるから、自ら引退時期を決めたり、自ら任期を決めたり、自ら権限を制限したりする。私はティール組織的な考え方、そのベースとなるインテグラル理論的な考え方のフレームワーク、ソース原理的な考え方のフレームワークに非常に共感することが多いのだが、成熟して寛容になる人間的成長余地が自分には多分にあると信じ、日々精進していく。

ちなみに、権限は責任に比例し、責任は権限に比例するので、権限と責任を最大限に発揮して負うことができるときにできるだけのことをやる、というのは期間を区切れば非常に合理的なこともある。そのため、権限を集中させることが一様に悪いとは言い切れない。その点も含めて、構造的限界を認識した上で活動するのが賢いように思う。