ストーリー無視力と衝動
MVVSとかパーパス経営とか起業家のビジョンとか、そういったものがもてはやされすぎていると感じる。
自分の周辺と心を潤すためだけにSMBやってる人だってたくさんいるしそれでいいし、もっと言えばなんとなくやっているだけの人だってたくさんいるしそれでいい。
MVVSとかで当てはめてインタビューしてるインタビュアーとか記者が書いた記事とかをよく見るけど、たぶんスタートアップ業界にいるからというのもあるけど、そういう質問自体が相手に「一般的に通用するっぽいイケてる価値観」のようなものを押し付ける質問である場合が多い。それ自体がコモディティ化している。
私個人としては、自分のことを論点3つで説明してそれで説明できているお思っているような人間とはあまり付き合いたくない。
子供の頃に、MVVSを意識しながらカブトムシ捕まえた人っていないでしょ?
もちろん、MVVSとかがコミュニケーションの一つの方法論としての言語化と、人間のストーリー認識・コンテキスト認識に響くということはわかってるよ。
ちなみに自分がフレームワーク開発・方法論開発をするのは、人に伝えられるからという効果があることが一義的にあるわけではなく、単純に好きだから。抽象概念をこねくり回して自分として抽象⇄具体を自分として発見したい、という純粋な学習欲からきていて、必要にかられて作っているものはほとんど無く、ほとんど衝動的に作っている。結果として、他人にも伝えられて使えるものであることはあるし、作ろうと思えば他人に伝えられるものに仕上げることができるスキルになっている。
もっと、文脈を度外視した人間的衝動を正面から受け入れていいと個人的に思うし、衝動に基づいて動けるというのは自分に自信があるからできるというか、「自分なら行ける!」とかっていう肯定的な感覚が豊かだからできると思うし、もう衝動的に動いているときは「自分が動いている」というメタ認知の感覚も吹き飛んで没頭しているのだ。なんて豊かな時間だろうか。