税金の有無による、企業の人材選択の社会的担保
時給が1万円のフリーランスのマーケッターであるAとBとがいるとする。
ある企業がこの2人と契約しているが、とある月間や年間に、Aには300時間の労働に対して300万円、Bには0時間の労働に対して0円を配分するとする。
このとき、個々人の所得税の合計という観点では、国全体ではその所得税を設けている場合とそうでない場合とで再分配に影響がある。
所得税を設けていない場合、Aに300万円でBに0万円を分配しても、Aに150万円でBに150万円を分配しても、その影響は再分配という観点では無差別となる。すなわち、所得の大小の差はあっても、国全体でのその期間の所得全体は300万円で、一次的な分配先であるAとBにそれぞれ配らて終了となる。
一方、所得税がある場合は、300万円:0円と150万円:150万円とで再分配に影響がある。所得税を通じた再分配機能がある場合、300万円のAから多くの所得税を国が納税させ、所得が0のBへ所得税を再分配することとなる。例えば300万円から10%の30万円を国が納税させ、その30万円をBに分配し直す、というかたちだ。
こう捉えると、企業が所得税や再分配を考えなければいけないときは、所得分配自体を調整しなければいけない。一方、所得税や再分配に対して企業のコントローラビリティが低かったり気にかけるインセンティブや組織文化が薄いときは、企業はAとBへの所得分配自体を調整する必要性が低い、もしくは全く無い。
企業は、コントローラビリティが低くても社会的な存在目的によっては再分配を考慮した所得分配をすることがある。
一方、企業ではなく政府が再分配機能を担い、その機能や分配率等への企業のコントローラビリティが低いときは、企業は任意の行動を選択できる。言い換えると、企業からの再分配機能の外部化は、企業の自由な活動を促したり下支えしているものとして捉えることができる。
もっと簡単に言えば、企業が自社のことに集中すればいいだけである。
例えば、280万円をAに払ってスターにする、ということを自由にしていいのは、再分配の仕組みを外部化しているからである。
再分配機能を企業から外部化することで、
- 国へのオーナーシップの欠如
- 社会全体の循環図の理解の薄まり
- 人への執着や接し方の、最終的な諦めやすさ
等は発生していると考えられる。
日本の第二次世界大戦後の急成長の背景としては、国のデザインの具体的なところとして、財閥を解体し、鉄やエレキを中心とした製造業に人とお金を集約して張りまくって、国が直接的に一次分配をせずともその分解のコントロール主体として、伸びる市場・勝てる市場である製造業の企業に所得分配を委託したようなかたちとなっているのが日本の歴史である。「儲かるところに張り、儲けさせて儲けてもらい、労働者にも儲けてもらう(所得倍増計画が最たる標語)」という仕組みである。
でもそれは、法人税計算や所得税計算が大変だった時代の産物でもあると思われる。つまり、そういった計算や所得分配、そして所得の再分配の計算や実行がインフラ的に大変だった時代のものである。
今はデジタルでむしろ国へのオーナーシップを企業が持てるインフラ的な技術的仕組みは開発可能となっているので、オーナーシップを持つグラデーションは企業次第の選択になっているとも言える。
だからこそ昨今は、ミッションとかビジョンとかバリューとかパーパスとかいろんなことが言われている。簡単に言えば、目的意識という言葉に集約されるだろう。そういった概念を持ち出すことで、企業はスタンスを取っており、取ったスタンスに対して人やお金が集まったり集まらなかったり、またプロダクトやサービス自体の差別化が難しくてそれ単体では勝負が難しくなってきたので定性的な表現としての目的意識を打ち出すことでプロダクトやサービスだけでは成し得ないような差別化を頑張ってしようとしている側面があることは否定できないだろう。要は、プロダクトやサービスとして特段ユニークなものは、生まれづらくなっているということだ。
企業の社会的責任(CSR)に対して、企業の社会的価値(CSV)と経済価値と意味づけとをリンクさせることが、企業の生存戦略や差別化の要素として重要となっている。(相対的には、以前はCSRに対しては経済価値としてお金を多く巡らせることがかなり大きな重要性を持っていたと捉えられる。)
ここからは、差別化としての企業のCSVと経済価値と意味づけとが重要になってくる、あるいは既に重要になっているが、それは裏返すと、企業はただ儲けていればいいだけではなく、社会全体へや社会全体に対してレバレッジポイントとなるようなところへのアプローチとしてのビジネスの展開が求められるということであり、それは企業が誰にいくらを分配するかについての、所得税のことを考えなくてもいいような状態からの意識的な脱皮をしなければいけないということでもある。
マクロとミクロを結びつけすぎて身動きが取れないくらいに固まってしまうのは本末転倒だが、その結びつきを絶えず考えるのが、企業の責任や企業のシステム設計者の責任として今後ますます重要になってくるだろう。