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人生のインターバル期間について

人生のインターバル期間について

定期的にでも不定期にでも、社会からいなくなってしまう感情は発生していいし、インターバル期間とかは設けていい。もし迷ってるなら、助けになるか分からないけど私が肯定する。

「社会復帰」という言葉があり、身体的だったり精神的だったりでブランク期間があったり、日本だと平均して22~23歳以降に会社など組織で働いていない状態から組織で働き直すことを指しているが、社会も復帰もどちらも概念であり幻想だ。

その社会が指しているのは、マジョリティとしての労働の定常性であり、人間は一定の年齢の期間は組織で働くものだ、という価値観だ。

私は、日本での標準というか普通にというか、幼稚園から大学まで年齢の通りにストレートで学校という小社会にいた。

ただ、一般に言ういわゆる社会人になっても、生きる感覚は大して変わっていない。

病気になった21歳から今日日28歳までが、自分の価値観が人生で一番変化に富んでいると感じているが、俗に言う「社会」にいること・いつの間にか関わっていることへの違和感というか、学生時代からずっと持っているそういう感覚が抜けたことはない。

相変わらず生きづらいところはあるし、いなくなってしまいたいこともあるし、実際にいなくなってもいいとも思っている。本気で。感覚としては、ドゥルーズやガタリの、「国家」に対する「遊牧民(ノマド)」的なものなのかもしれない。

加えて私は、21歳のときに難病を患ってから5~6回は入院して数週間の脱俗世間を経験しているが、自分の意識の脱皮を半強制的にかけられる良い期間だと感じている。幸か不幸か、アドバイスも仰ぎながら自分なりに体調管理をするなかでも時々訪れてしまっている機会だが、おそらく精神的なところから来ているねじれみたいなものが体に表出して入院で回復しないと難しい状態になっているのかもしれない。入院したての体のきつい時期も嫌だし、動ける範囲が極めて狭いのも嫌だけど、徐々に回復して新たな視点で自分を捉えたり、スマホとペンと検査同意書の裏紙しかない状態で、社会概念の組み換えをしたり思考の試行錯誤をするのは結構気に入っている。

ちなみに私の担当医はメチャクチャ柔軟な人で、社会とはこうあるものだ、という価値観の押し付けさが少ない。ウェルビーイングに手を貸してくれる人だ。「社会復帰してちゃんと働けるようにしなきゃ!」みたいな偏見が少ない。もちろん、世間話として自分のビジョンやそれに対するアプローチ方法としての(相手に理解してもらえり翻訳語としての)「労働」について話すことはあるが、担当医には担当医の原体験や感情やそれに対する解釈や文脈があり、自分には自分のそれがあることをお互いに尊重しているような、そんな適度な塩梅の関係性となっている。これはありがたい限りだ。

一方、インターバル期間を設けることが怖いとか、社会的な統計的な傾向として出産等で休むと会社復帰しづらいとか、といういった社会的な現状や感情的なことは現実にあると思う。社会のマーケティングや特定の価値尺度が支配的ななかで我々は生きているので、そう感じること自体は仕方がないことではある。そう感じることが、何か劣っているとかそういうことではない。

その社会的な幻想的な価値観を自分にそのまま受け入れてバランスをどうにか取れるのであればそれでもいいと思うが、そうではない場、もっと偏っているけど特定の人たちにはメチャクチャ行きやすい場、というものを私は手掛けていきたいと思っている。