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宗教勧誘を立て続けに受けて思ったこと

宗教勧誘を立て続けに受けて思ったこと

この3日間で、同じ宗教の勧誘を2回立て続けに受けた。おそらく強化月間なんだろう。もしくは重大で甚大な何かに我々人類が近づいているのか。

宗教勧誘は久しぶりに受けたのだが、それについていつも思うのは、信じてることや信じ方が違うだけなんだなと。

私の信じてること、大事にしていること、優先していること、すなわち価値観は主に下記の3つ。

  • 誠実さ
  • 好奇心
  • オーナーシップ

この3つのうち、オーナーシップほどにビジネスで差が出るというか、人によって姿勢が異なるものはないなと感じている。

顧客の財布からいくら引っ張れるか、いかに自分がリスクテイクさせずに他人の金でふんどしを取れるかしか頭にないコンサルティングファームやコンサルタントが私は大嫌いで、積極的に距離を取る。

もちろん、過去の経済発展やインフラ整備の上でふんどしをとっているという構造的には、私も「人類・人類の蓄積の上に生かされている」ことには違いはない。

ただ、自分のところに巡ってきたものや情報や知恵やリソースを自分でベットする意識がないような人には私は全く興味がないし、自分が周りの影響をそれなりに受けてそんなヤツが自分の周りにいると自分が腐るので、積極的に距離を取るようにしている。

私も、コンサルティングやアドバイザリーの世界に数年間だけいたことがある。ただ居るうえで、絶対に期間限定にすると決めていたし、アドバイザーとしていろいろな場面に関与させてもらいながらもずっと、「自分はそっち側だな」と感じてきた。つまり身銭を切る側が自分の居場所だなと。(意図してアドバイザリーという環境を選んだので、そちらはまた別の機会に。)

もちろん、コンサルタントやアドバイザーに介在価値がないと言っているわけではない。ただ、リスクをとっているのは顧客であって、あなたが晒しているのはせいぜい信用リスクだけ。人から頼られるかとか、そういった信用。

コンサルタントやアドバイザー、転職エージェントなどが、「成功させた」とか「M&Aを成約させた」とか「転職成功させた」とかと発言する場面をたくさん見てきて、実際にその人がいなければ達成し得なかったような介在価値を発揮している場面にも立ち会ってきたし、自分も介在価値を発揮できたのではと思った瞬間もある。

それをアピールしたり伝えるときに、キャッチコピー的にはゼロかイチかで表現される印象が強い「成約」や「成功」を使うほうがわかりやすくて惹きつけやすいのは理解できるが、だからこそ私は解釈の余地とグラデーションが広範に存在する「関与」という表現しか使わない。

解釈の幅、濃度の幅が出る「関与」という表現を使いながらも、実際に会ってみたり一緒に活動してみて「この人とならやれる!」という気持ちを抱かせられないのであれば、どうせ大した介在価値はないと解釈している、もしコンサル的だったりアドバイザー的に何かに関わることがあっても、口が裂けても「自分のお陰で成功した」なんて言わない。

私の場合はだが、生きている実感は自分が変数となって関わった瞬間だったりそのフィードバックが帰ってきたりという機会で感じることが多い。

私は自分が変数になっている実感がないと気が済まないし、だからこそ身銭を切って時間も金銭もマインドシェアも信用も張っていくことを通してその実感を得たいなと思っている。

ちなみにコンサルティングやアドバイザリーの業界は、ちゃんと離職率や回転率が高いようになっている。これは、世の中はここの点ではちゃんとできているなと思うところなのだが、生きる実感の少なさと離職率は比例するようになっているのではと私としては捉えている。私に都合の良い引用をしてしまっている可能性はあるが、「コンサルから事業会社へ」とか「コンサルからスタートアップへ」みたいな流れは、私が長らく「手触り感」と読んでいるものや、自分が変数となっている実感をより得たい、という心境の現れだと解釈している。

生きている時間が50年だか100年だかだからこそ、その期間では優先しているものや自分の大事な尺度(主に上記3つの価値観)に則って生きていきたい。

逆に、生きている時間が永遠なら、尺度を持たないことのほうが賢いのかもしれないなと思う。指標の有無に関わらず、生きることができるわけなのだから。

その生きるうえでの尺度が違うことの表出の仕方が、ある人は冒頭のように宗教のような概念の塊を信じることだったりするのではと。

最後に思ったのは、その人(私に話しかけて勧誘してくれた人)は、その人が信じていることを「私に伝えてあげないともったいない!」という、愛に溢れた行動原理を持っているんだろうと思った。(あの目はマジだった。)

『イノベーションのジレンマ』などで有名なクレイトン・クリステンセン氏も、かなり敬虔なクリスチャンだなと感じる表現をいろんな本でしている。私の愛読書の1つの『イノベーション・オブ・ライフ』においても、クリステンセン氏の宗教観やその敬虔さ、dedication(献身さ)が見て取れる。そのうえで、一人ひとりに接してきた自分の行動そのものが自分の意味だ、ということを述べている。

多方面で活躍されたクリステンセン氏もそうなわけなのだから、方向性や対象や信念の根源は違えど、生きている間に自分の優先していること・優先したいとつい思ってしまうことを優先するのはアリだと思っているし、私は冒頭近くの3つが主な尺度。全てにおいて。

今回私に勧誘してくださった方を観察していて思ったことはもう1つあります。

それは、セールスとか説得とか情報伝達において、行動原理としての愛はあるのかと思うのだが、愛には受け取る側の受け取る意志も関わると考えている私としては、少し一方通行気味だなと感じた。

とはいえ、プッシュ型のセールスが本当に有効な場面や人もあるのは事実です。ほとんどの人は自分で決めることを日和るので。私も日和りまくって生きてきた。

ちなみに、私に連続でセールスしてきた人たちの謳い文句は、一言一句一緒だったので、ある種の「オペレーショナル・エクセレンス」を感じた。

データ、ロジック、アプリケーション、オペレーション、目的といった一連のレイヤーに対してそれらを総合的に見て構造を作る「オペレーショナル・エクセレンス」が専門でもある私としては、その謳い文句の揃いかたは面白かった。

人が果たす役割が、人とコトとの間のラストワンマイルでのカスタマイズなんだとしたら、もう少し柔軟性というか相手に応じて言い換えとかができたら良いのでは、とは思った。

と同時に、セールスファネル的に、謳い文句を統一することで、そのフィルターを通ってきた人はかなりその宗教にコミットしてくれるのであれば、「ファネルの移行率の最大化を通じたセールス成功数の最大化」ではなく、「最後にコミットしてくれる人の抽出と最適化」として設計されているのかもしれない。

まあ、知らんけど。