理由なし、のススメ
私は歩く🚶のが好きである。週に100km歩いているくらい。
散歩といえばランディフ、ランディフといえば散歩、が完全に定着しているかと思う。(?)
距離の長さが好きの大きさと比例するとは思わないし、とある知り合いは犬の散歩を朝と夕方にすることで歩いて合計6kmくらい、という感じの程よい歩きライフを実践していて楽しそうにしている。
週に100km歩いていてそれを他の方に伝えてみると、大体の場合、
- 「歩いている間は何か聞いているんですか?」
- 「なんで歩いているんですか?」
というご質問をいただくことが多い。
人間の性として、訊かれたら「それっぽく」答えたくなる、という点があると思う。
私の場合は上記のようなことをご質問いただいたら、
- 「健康にも良いからです」
- 「歩く瞑想になるからです」
- 「体が細いので足腰の強化になるからです」
とかそれっぽいこと、それっぽく聞こえることを言うことがある。
でも結局、私がいくら考えてみても、私にとって歩くことなんて特に理由はない。
で、それでいいというか、それがいいと思っている。
もちろん、五行陰陽的な意味合いで「金で肺がXXだからYYをしている」という東洋的な理由(便宜的に東洋的と表現させてもらう)を持ち出したり、上記のように「健康にいいから」と言ってみたり(多分歩き過ぎで不健康なレベルの可能性もあるが)、また「一定のリズムを刻み続けて、あるきながら瞑想できる」とかいろんな理由っぽい表現はできる。あとは「歩くのが癖になっているから歩いている(=習慣)」ということもそれっぽく聞こえるかもしれない。
でも、どれか1つということでも無い気もするし、おそらくどれか1つだけの理由で歩いているわけでも無いし、上記の理由っぽい理由で網羅的に説明できるわけでも無いと思っている。
結論、
「歩いているから歩いている」
というだけ。
で、それがいいんじゃね?と。
少し話変わるが、例えば「結婚相手に求める条件」として「身長は◯◯以上で、年収は△△以上で、オモイヤリがアッテ、顔は□□で」云々ということを主張される方が世の中いらっしゃると聞くことがある。
で、極めて理論的な話としては、「身長・年収・オモイヤリ・顔・その他」といった条件を未来永劫クリアし続けなければいけないとしたら、その条件から1つでも逸脱した場合(例えば年収が△△未満になった場合)は、結婚というカタチは離れなければいけないことになる。理論的には。
だって、条件だから。
それが理由だから。
理由が純然たるものとしてあって、それから逸脱したら、理由として持ち出して実行している行動を粛々とやめて損切りしなければいけない。
損切りしていないとしたら理由になっていない。
認知的不協和も発生する。
結婚のことはようワカランのでこれが限界だが、歩くことと結婚を同列に見るとすると、「歩きたいから歩く」のと「結婚したいから結婚する」というのって対して差はないと思われる。実際、結婚は社会的な規範としての意味合いも強かったですし文化的な背景の色合いも濃いので。
何が言いたいかというと、理由を持ち出してそれが全てでMECE的だと自分が認識したりしていると、自分が苦しくなる。だって、理由という多くの場合は虚像にもなり得るものに自分を縛り付けているから。言霊。
なので、「いや、特に理由はないけど。。。」という状態が、言霊に支配されやすい人間の性質としては最高のヘルシーな状態なんだと個人的には確信している。
ビジネス界隈だと、「理由は3つあって、AとBとCです」みたいなことを便宜的に使用する場面がある。私も使用することはあるが、便宜的にであって、ビジネスというゲームでのプレー方法として使用することがある、というだけ。場合によってはそれのほうが良いインパクトを出せる可能性があるから。
けどそれを、3つのそれっぽく聞こえる理由でそれが全てだとか思っている人も見かけることがある。「なるほど!!」とすぐに思ってしまったり。
もちろん、論点を整理してギュッと表現していくことが目的に対して効果的な場面もあるが、システム論者である私としても、世の中の実態としても、「表現するということは多くのことを捨象していて、捨象したものも統合的にアナログに捉える」ことは重要であると考えている。
つまり、表現や理由は「でっち上げ」。
「でっち上げ」との折り合いの付け方は、「ま、自分も相手も知らない未知の部分があるけどね」と常に思っておくこと。わかった気にならないこと。
※「なんで歩くのか」をセールストークやラポールとして表現するのが下手くそだからこんなにごちゃごちゃと書いているのかもしれない。それでもこの曖昧さを一緒に味わえる方と一緒にいたいなと思う。