誠実の輪を広げたい
自社の正社員かそうでないかすごく隔てる会社って、いざというときにクリティカルだけど納得感のあるコミュニケーションが取れない。
自社の正社員のするほうが、契約交渉を頻繁にしなければいけないほどにフリーランスと比べるとコミュニケーションコストは下がることはあるけど、それはコミュニケーション能力を上げることにはほとんど寄与していない、もしくは現状維持か下がっている可能性もあるので、自社の正社員にも説明ができない。
私がいたスタートアップも関与させていただいたスタートアップも、額面給与とストックオプションとを組み合わせることに頭を使うべきというのが私のスタンスですが、ブラックボックス的説明しかせずに正社員雇用して、ストックオプションは後出しジャンケン的に付与しないと決める会社も想像以上に会ってきたし見聞きもするけど、そういう不誠実な企業は、対外発信はキレイゴトで中のことを正確に把握していない、もしくは把握することを諦めている経営者が発信していることがほとんどで、まじでカオス。
いずれ、定常的な組織変容ができないので、組織崩壊するか、課題意識を持った人が組織「変格活用」
ミッション・ビジョン・バリューと人間性
昔から、ミッション・ビジョン・バリューみたいなものはエンティティとして用いられていた概念なのか。それとも、近年になって用いられることがオーソドックスになってきた概念なのか。
もし近年になって用いられれているものなからば、昔は違った。
昔は、経済成長と個人の環境改善とが比例関係にあってある程度わかりやすかったとする。
そのときが、実は一番経済合理性が用いられたときなのではないか。
つまり、経済合理的なをすることの反映としての個人の環境改善までの道筋が見えやすいとき、経済合理的な行動に対するインセンティブが、経済合理的であることそのものになる。
一方、ミッション・ビジョン・バリューのような定性的な概念を用いるということは、
全面的に、一部を真似する
憧れている唯一の人とか、ベンチマークにしているたった1人の人とか、自分にはそういった人はいない。
これまで参考にしてきたたくさんの人たちのうち、ほんの一部を挙げるだけでも下記のような人がいる。(順不同。何において、という点についてはこれから述べることを読んでいただければわかるように、意志を持って記載しない。)
* 本多静六
* 濱口秀司
* 御田寺圭
* 島田紳助
* 太田光
* 関根勤
* ハンナ・アーレント
* J.P.サルトル
ストーリー無視力と衝動
MVVSとかパーパス経営とか起業家のビジョンとか、そういったものがもてはやされすぎていると感じる。
自分の周辺と心を潤すためだけにSMBやってる人だってたくさんいるしそれでいいし、もっと言えばなんとなくやっているだけの人だってたくさんいるしそれでいい。
MVVSとかで当てはめてインタビューしてるインタビュアーとか記者が書いた記事とかをよく見るけど、たぶんスタートアップ業界にいるからというのもあるけど、そういう質問自体が相手に「一般的に通用するっぽいイケてる価値観」のようなものを押し付ける質問である場合が多い。それ自体がコモディティ化している。
私個人としては、自分のことを論点3つで説明してそれで説明できているお思っているような人間とはあまり付き合いたくない。
子供の頃に、MVVSを意識しながらカブトムシ捕まえた人っていないでしょ?
もちろん、MVVSとかがコミュニケーションの一つの方法論としての言語化と、人間のストーリー認識・コンテキスト認識に響くということはわかってるよ。
ちなみに自分がフレームワーク開発・方法論開発をするのは、
動画と本の違い
映像はたしかに面白い。自分もYoutubeのドキュメンタリーとかは結構見るし、視聴時間もトップクラスだと思う。
一方、本も読む。
そこで、動画と本の差は何かと考えた。
なんなんだろうか。
自分としての答えは、想像する景色の違い、である。
具体的には、動画だと、例えば中田敦彦のYoutube大学はみんなが同じものを同じタイミングで見ることになり、人ごとに見ているものの差分が発生しづらい。
一方読書は、読むペースも違えば、文字への着眼ポイントも違えば、文字から想像する自分の頭の中のイメージも違う。この想像する景色が違うというのはかなり面白い。
「課題の分離」と「人間のロマン」
以前、フリーランスとして活動している人に、「フリーランスで大きな課題に向かっている人はいるのか?」という質問をしたことがある。
その人の答えとしては、ある、とのことだった。
回答の内容としては、彼のある知人は、自分で会社やりつつも、他の会社のNo.2としてのポジションを、外から入って確立してコミットしていて。その会社で骨を埋めるつもりでやるが、最悪それが失敗しても仕方がないとしている、とのことだった。
それに対して私が考えたこととしては、最悪失敗してもいい、というところの感覚は、課題の分離の観点では妥当に見えなくもない、
逆境克服物語は好きじゃない
「学歴はないけど社長になった」とか「親がいなかったけどここまで来た」とか「貧乏だったけどここまでのし上がった」とか、そういった一見して逆境だったような環境から脱したり、実際の逆境的な環境から脱して他の人から評価されやすい尺度での上の方に位置したりとかっている物語を言う人もその物語自体も、私は個人的には好きではない。
SNSで投稿すればインプレッションが得られ、ブログにしたらPVが得られ、何かしら引用され、時には人を惹き付け、時にはお金を惹き付け、そういった多ければ多いほど評価される指標群がポジティブな方向に振れることが多いように思う。
人間の脳みそは物語製造装置で、物語が大好きで意味づけが大好きだから、共感とやらに到達してポジティブな反応の具体として、いいねしたり引用して紹介したり投資したり投げ銭したりとか、そういった行動を引き出すことになることも多い。
成田悠輔 × YAMAP 春山慶彦の動画
この前編・後編の2つの動画について何度もコメントや考察を書こうと思ったのだが、なかなかまとめることができていない。
正直、今回はこの動画を見ていただくこと自体が最も効果的な伝達となるのでは、という一部の逃げの論理を自分に対して言い聞かせながら、乱暴に、動画2つを下記に記載することで記事投稿とする。
是非是非見てほしい。
人間が自分たちのコンフォートゾーンを作り出し、その切り出した中に自分たちを置き続けることで、自分たちが盤石であるようなシステムを持っていたり、盤石な身体を持っているような錯覚を起こしている可能性がある。そういったこと、自然と触れ合って学べる確率が高いことにもっと触れる表面積を持ってもいいと個人的に思ってきたし、それを明確に言語化はできていなかったが、この2つの動画でそういったないようのことを豊かな表現で2人が語っている。
※合う人と合わない人がわかれるかもしれないが、『半脆弱性』というニコラス・
自分の身は自分だけで守る?
自分の身は自分で守る、というのは、自分の身は自分だけで守る、ということではなく、自分の身は自分でも守る、ということなのではないか。
パートナーの協力してもらうことも、親や兄弟に協力してもらうことも、医者や看護師や薬剤師に協力してもらうこともある。
ともかく、自分だけで守れると思っているうちはまだ自分に余裕がある。
私は何度も入院して、また直近(2023年8月)で入院して改めて思うのは、どうしようもないときもあるということで、そのときはいろんな人に協力してもらわざるを得ない。
そんなときに、自分の身を自分だけでも守れると思っているなんて勘違いだと気がつく。正直、
人生のインターバル期間について
定期的にでも不定期にでも、社会からいなくなってしまう感情は発生していいし、インターバル期間とかは設けていい。もし迷ってるなら、助けになるか分からないけど私が肯定する。
「社会復帰」という言葉があり、身体的だったり精神的だったりでブランク期間があったり、日本だと平均して22~23歳以降に会社など組織で働いていない状態から組織で働き直すことを指しているが、社会も復帰もどちらも概念であり幻想だ。
その社会が指しているのは、マジョリティとしての労働の定常性であり、人間は一定の年齢の期間は組織で働くものだ、という価値観だ。
私は、日本での標準というか普通にというか、幼稚園から大学まで年齢の通りにストレートで学校という小社会にいた。
ただ、一般に言ういわゆる社会人になっても、