ナレッジトランスファーと学習の種類
属人的に溜まっているナレッジなどのトランスファー(ナレッジトランスファー)を概念レベルでやろうとしている会社は結構あるが、
* 個人学習
* 組織学習
の2つがごっちゃになっていることって多いなと感じる。
上記2つはMECEではなく被りが多分にあるが、個人から組織へのナレッジトランスファーを意識的にしない限り、組織学習ではなく個人学習がなされるだけで、組織へも移転は達成されていない実情を多く見ている。
Aさんという特定のナレッジ保有者から、ナレッジを学習する個人であるBさんに移転されても、Bさんと一緒に組織を構成するCさんとDさんとEさんも一緒に学習して手を動かして実感を得ない限り、学習主体は組織ではなく個人になってしまう。
これをやっても、Aさんが抜けたあとにBさんが抜けたら、またナレッジトランスファーが課題になる。組織学習しないことによる課題が再生産される。
またそういった組織は、学習できなかったこと自体を学習できるメタ認知もできていないことが多いので、
コミットメントの具体的な観察方法の一考察
正社員をやめる前もやめた後も思うが、会社への愛着やコミットメントがあることの具体的な観察は、
* 会社に対してNoと言える
* 仲間に対してNoと言える
* 自分に対してNoと言える
ということで可能だと思っている。
Noって言うの、普通に疲れるわけである。特に問題意識が沸々と浮かんでくるようなタイプではない人からしたら。私は言っちゃうタイプだったし今も結構そうだが。
でもその、疲れるけれども自分のこと以外のことも視野に入れて、ある種行動や思考を広げて提案している人ほど、会社に対して愛着やコミットメントがある人なんて他にいるだろうか。
文脈理解も伝え方も伝えるタイミングも観点も、私は全部盛大にミスったことがあるのでその点は建設的ではなくて申し訳ないなと思っている。
ただ、Noと言う癖があったうえで軌道修正していく(=文脈理解して、効果・
全面的に、一部を真似する
憧れている唯一の人とか、ベンチマークにしているたった1人の人とか、自分にはそういった人はいない。
これまで参考にしてきたたくさんの人たちのうち、ほんの一部を挙げるだけでも下記のような人がいる。(順不同。何において、という点についてはこれから述べることを読んでいただければわかるように、意志を持って記載しない。)
* 本多静六
* 濱口秀司
* 御田寺圭
* 島田紳助
* 太田光
* 関根勤
* ハンナ・アーレント
* J.P.サルトル
ストーリー無視力と衝動
MVVSとかパーパス経営とか起業家のビジョンとか、そういったものがもてはやされすぎていると感じる。
自分の周辺と心を潤すためだけにSMBやってる人だってたくさんいるしそれでいいし、もっと言えばなんとなくやっているだけの人だってたくさんいるしそれでいい。
MVVSとかで当てはめてインタビューしてるインタビュアーとか記者が書いた記事とかをよく見るけど、たぶんスタートアップ業界にいるからというのもあるけど、そういう質問自体が相手に「一般的に通用するっぽいイケてる価値観」のようなものを押し付ける質問である場合が多い。それ自体がコモディティ化している。
私個人としては、自分のことを論点3つで説明してそれで説明できているお思っているような人間とはあまり付き合いたくない。
子供の頃に、MVVSを意識しながらカブトムシ捕まえた人っていないでしょ?
もちろん、MVVSとかがコミュニケーションの一つの方法論としての言語化と、人間のストーリー認識・コンテキスト認識に響くということはわかってるよ。
ちなみに自分がフレームワーク開発・方法論開発をするのは、
動画と本の違い
映像はたしかに面白い。自分もYoutubeのドキュメンタリーとかは結構見るし、視聴時間もトップクラスだと思う。
一方、本も読む。
そこで、動画と本の差は何かと考えた。
なんなんだろうか。
自分としての答えは、想像する景色の違い、である。
具体的には、動画だと、例えば中田敦彦のYoutube大学はみんなが同じものを同じタイミングで見ることになり、人ごとに見ているものの差分が発生しづらい。
一方読書は、読むペースも違えば、文字への着眼ポイントも違えば、文字から想像する自分の頭の中のイメージも違う。この想像する景色が違うというのはかなり面白い。
「課題の分離」と「人間のロマン」
以前、フリーランスとして活動している人に、「フリーランスで大きな課題に向かっている人はいるのか?」という質問をしたことがある。
その人の答えとしては、ある、とのことだった。
回答の内容としては、彼のある知人は、自分で会社やりつつも、他の会社のNo.2としてのポジションを、外から入って確立してコミットしていて。その会社で骨を埋めるつもりでやるが、最悪それが失敗しても仕方がないとしている、とのことだった。
それに対して私が考えたこととしては、最悪失敗してもいい、というところの感覚は、課題の分離の観点では妥当に見えなくもない、
日本のタクシー王子
日本やばすぎないか?
私の出身大学の先輩で、私の大学の卒業式(2018年3月)にスピーチしに来た日本交通の川鍋一朗氏が、「世田谷区の細い道を全部自動運転するには30年はかかる」という発言をしている。
タクシー業界のボス、日本交通の川鍋会長「自動運転は30年かかる」タクシー大手・日本交通の川鍋一朗会長が「世田谷区の細い道を全部自動運転するには30年はかかる」との考えを示して自動運転ラボ下山 哲平
利権とか法律とか技術とか事業とかプレイヤーとかいろんな要素が絡んでいるとはいえ、運転技術はすでに人間よりも自動運転によるほうが優れていて、あとは量産体制と法律の問題がほとんであるなか、日本の隅々まで自動運転が行き渡るのが30年かかるのはやばすぎる。
当然、
人生のインターバル期間について
定期的にでも不定期にでも、社会からいなくなってしまう感情は発生していいし、インターバル期間とかは設けていい。もし迷ってるなら、助けになるか分からないけど私が肯定する。
「社会復帰」という言葉があり、身体的だったり精神的だったりでブランク期間があったり、日本だと平均して22~23歳以降に会社など組織で働いていない状態から組織で働き直すことを指しているが、社会も復帰もどちらも概念であり幻想だ。
その社会が指しているのは、マジョリティとしての労働の定常性であり、人間は一定の年齢の期間は組織で働くものだ、という価値観だ。
私は、日本での標準というか普通にというか、幼稚園から大学まで年齢の通りにストレートで学校という小社会にいた。
ただ、一般に言ういわゆる社会人になっても、
供給側のことばっかりのクソ発信はクソ喰らえ
過去に3社に属したが、頑張ってうまくいき始めたり、まだ上手く行っていないけど頑張っていたりして、手段として対外的に広報・発信するコンテンツとして、「こんな優秀な人がいます!」とか「こんな優秀な人がジョインしました!」とか「こんな社内体制です!」とかそういうことを発信する場面をたくさん見てきた。スタートアップでも大企業でも。
もちろん、会社の組織システムや誰と働くかは、金銭的・非金銭的な報酬や福利厚生として機能する部分はあるが、めちゃくちゃ思うのは、誰にタイトルが付いたとか、誰が昇進したとか、誰が採用できたとか、
理由なし、のススメ
私は歩く🚶のが好きである。週に100km歩いているくらい。
散歩といえばランディフ、ランディフといえば散歩、が完全に定着しているかと思う。(?)
距離の長さが好きの大きさと比例するとは思わないし、とある知り合いは犬の散歩を朝と夕方にすることで歩いて合計6kmくらい、という感じの程よい歩きライフを実践していて楽しそうにしている。
週に100km歩いていてそれを他の方に伝えてみると、大体の場合、
* 「歩いている間は何か聞いているんですか?」
* 「なんで歩いているんですか?」
というご質問をいただくことが多い。
人間の性として、訊かれたら「それっぽく」答えたくなる、という点があると思う。
私の場合は上記のようなことをご質問いただいたら、